「弓月の君率いる秦氏の謎」(ゆづのききみひきいるはたしなぞ)
日本書紀で伝えられるところによると、応神天皇の時代に秦(しん)の始皇帝の子
孫である「弓月の君」が百数十県の民、数万人を率いて、百済から渡来してきたという。
秦氏(はたし)の研究で発掘された遺跡には新羅系の物が多く、日本書紀が新羅を百
済と間違えたとするのが定説である。秦氏は、土木、製鉄、養蚕、機織りの技術を持っ
て渡来し、山城(現在の京都府)を中心に大和朝廷を支え、平安遷都にも大活躍した
という。聖徳太子の知恵袋的存在であった秦氏の秦河勝は有名で、弥勤菩薩で知られ
る広隆寺も秦氏の氏寺であるが、その秦氏と当地総社市秦との関係は推測でしかない。
その秦氏が、この総社市秦に本当に渡来してきていたのか。秦氏は、朝鮮半島に新
韓をつくり、新羅を経て、まずは九州北部の宇佐八幡神社を拠点にしたという。そし
て中国地方を経て、京都まで最先端の文明を持って制覇したという。稲荷神社、八幡
神社など秦氏が全国に建立した神社は約八万社もある。現在の岡山県にも秦氏の関係
しているものは極めて多数にのぼり、美作の国まで秦氏によるものと言われている。
法然上人の母も秦氏であったという。しかし、県内に秦氏に関係する事物が多いから
といって当地秦に秦氏が渡来して住み着いたという明確な証拠は未だないが、その可
能性は県内の実態からもきわめて高い。
これまでの物的な証拠としては、秦原廃寺の瓦の文様と秦氏の氏寺である広隆寺の
瓦の文様がよく似ていることがあげられるが、飛鳥時代に京都と当地秦に同じ様な瓦
を製造する文明をもった勢力があったとしかいえない。また、秦上沼古墳から出た三
角縁神獣鏡は京都の椿井(つぱい)大塚古墳から出た鏡と同型といわれており、古墳
時代の前後に双方に相当の勢力をもった豪族がいたことは明らかであるが、それが渡
来人秦氏によるものとは断定できない。しかし「秦原廃寺の一帯は、和名抄にいう備
中国下道群秦原郷で古代に渡来氏族の秦氏の居住地であったことは確かであろう。」、
「秦原廃寺も秦氏の氏寺であったと考えて間違いない。」(薬師寺慎一編著 吉備の古代
史事典)との解説もある。
以上のような明確な証拠もない推測が、今日までの約1700年続き、吉備の古代史を
作り上げてきた。1700年間未盗掘のまま安らかに眠ってきた当地秦の30数基もの-
丁𡉕古墳群、秦氏の謎を解明するためにもこの古墳の発掘調査こそ市政の重要課題だ。
吉備の国の中心地であった総社市の古代史解明に考古学者関係者はもとより、総社市
民の大きな期待がかかる。(板野 忠司)